大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 平成元年(行ウ)14号 判決

原告

甲野乙子

右訴訟代理人弁護士

佐久間信司

市川博久

松本篤周

水野幹男

被告

半田労働基準監督署長岩田忠勝

右指定代理人

高井正

中島正則

津田博志

伊藤守

松本金克

原田雄司

林寛行

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  被告が原告に対して昭和五九年一二月三日付けでした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

第二事案の概要

本件は、日本油脂株式会社(以下「日本油脂」という。)の武豊工場化薬研究所(以下「化薬研」という。)に管理職として勤務していた原告の亡夫甲野健(以下「健」という。)が、月例の研究発表会及び文献報告会に出席後業務打ち合わせを行い、所定労働時間終了後執務室で倒れ、昭和五七年一一月三〇日脳内出血のため死亡したことが業務上の死亡に当たるとして、原告が被告に対してした労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく遺族補償給付及び葬祭料の請求に対し、被告が健の死亡は業務上の事由によるものとは認められないとして不支給の処分をしたため、原告が被告に対し、右処分の取消しを求めた事案である。

一  争いのない事実

1  健の経歴等

健(昭和一二年一月一日生まれ)は原告の夫であり、昭和三六年四月一日日本油脂に入社し、主任研究員等を経て昭和五六年一一月二一日愛知県知多郡武豊町所在の同社武豊工場化薬研PO第一グループ(以下「PO1G」という。)のグループリーダー(以下「GL」という。)に就任し、以後有機過酸化物(以下「PO」という。)製品の改良及び付随する新製品の開発業務に従事していた。

2  発症から死亡までの経過

健は、昭和五七年一一月二九日、月例の研究発表会及び文献報告会に出席した後業務打ち合わせを行い、午後五時頃から執務室において業務(翌日に予定されていた職場懇談会の準備をしていたものと推測される。)に従事中倒れ、午後九時五〇分頃巡回中の守衛に発見されて直ちに救急車で愛知県知多郡(以下、略)所在の杉石病院に搬送され、さらに、愛知県豊明市(以下、略)所在の名古屋保健衛生大学病院に収用されて同月三〇日手術を受けたが、同日午前八時三六分脳内出血により死亡した。

3  本件処分等の経緯

(一) 原告は、健の死亡は業務上の事由によるものであるとして、被告に対し、遺族補償給付及び葬祭料の請求をしたところ、被告は、健の死亡は業務上の事由によるものとは認められないとして、昭和五九年一二月三日付けをもって不支給処分(以下「本件処分」という。)をした。

(二) 原告は、本件処分を不服として、愛知県労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求をしたが、同審査官は、昭和六一年三月二八日これを棄却した。

(三) 原告は、右決定を不服として、労働保険審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は、平成元年二月二八日これを棄却し、原告は、同年三月二三日、その旨の通知を受けた。

二  争点

本件の争点は、健の死亡が業務上の事由によるものといえるか否かという点にある。

1  原告の主張

(一) 健の業務の過重性

(1) 発症当時の業務内容

健は、前記一1のとおり、日本油脂に入社後、主任研究員等を経て、昭和五六年一一月二一日同社武豊工場化薬研PO1GのGLに就任し、〈1〉PO新製品の研究・開発に関する管理業務、〈2〉PO製造法の改良研究、〈3〉POの技術サービスと技術情報の収集、〈4〉POの性能研究・分析、〈5〉情報管理等の業務に従事していた。

(2) 出張、接待、二直等

右のようなGLとしての職務上、昭和五七年になってから健の出張が急増し、特に同年九月以降本件発症までの約三か月間の出張日数は延べ一三日に上り、そのうち本件発症の直前である同年一一月には東京本社への延べ三日の出張がある。出張目的は様々であり、泊まりの出張では一回で複数の先を廻ることが多く、東京本社への日帰りの出張の際には早朝に自宅を出て帰宅は深夜となるなど、健にとって身体的に負担となるものであった。

また、管理職としての職務上、健はユーザーを接待したり、部下や本社の社員と飲酒することがままあった。

さらに、「二直」と呼ばれる当直勤務の負担が時間・回数の両面で増大し、従来一か月に一回、午後一時から午後一〇時までであったものが、昭和五七年になると午前八時から詰めなければならなくなり、回数も増え、同年一〇月には、健は二回二直に当たった。

(3) PO部門に対する会社の期待

日本油脂において、POは爆薬と並ぶ主力商品であり、同社はPO業界のシェア五〇パーセントを越える業界トップの地位にあったが、POは歴史の浅い分野であり、業界自体発展途上にあって、ライバル会社との競争が厳しいことから、新製品の開発や既存品のコストダウンのための製造方法の改良は、日本油脂の社運を左右する事業であった。そのため、PO部門に対する同社の期待は従来から大きかったが、とりわけ経済低成長期に入ってからは会社の期待が一層増大した。

このような中で、GLは研究現場の第一線を管理する者として、会社の期待、要求を一身に受けると同時に重い責任が課される一方、部下からの要求にも応えなければならず、また、同僚であるGLは競争相手でもあったから、健は日常業務において既に極めて高いストレスに曝されていた。

(4) 発症直前・直後の組織変更

昭和五七年一一月二〇日以前、化薬研のPO部門は、POの新製品の研究・開発等を担当するPO1G、PO以外の新製品の研究・開発等を担当するPO第二グループ(以下「PO2G」という。)、PO1G及びPO2Gで開発されたものの量産化等を担当する中試グループ(以下「中試G」という。)からなり、各グループの構成員は、それぞれ二〇名、二四名、一〇名であった。

ところが、昭和五七年一二月一日付けで中試Gが廃止されることになり、これに先立ち同年一一月二一日付けで中試Gの構成員のうち五名がPO1Gに異動となり、さらに、同年一二月一日付けでPO2Gの構成員のうち五名がPO1Gに編入される予定となっていたため、同年一二月一日の時点でPO1Gの構成員が合計三〇名に増加することが予定されていた。

一般に管理職にとって、部下の増加はそれだけ管理業務を増加させることは明らかであるが、右の組織変更により、高学歴でかつ不定期な業務を持つ研究職と健が取扱いに苦慮していた作業職の部下が合計一〇名も増加することとなったのであり、このことが健にとってさらに過重な精神的負担となった。

(5) 発症当時の年度末負担

本件発症当時、日本油脂では、前年一二月一日から当年五月三一日までを上期、当年六月一日から当年一一月三〇日までを下期とする営業年度を採用しており、本件発症当日である昭和五七年一一月二九日は、昭和五七年度下期の終わる一日前であり、昭和五八年度上期を目前に控えた時期であった。

年度末は、当期の研究の到達点が評価されるとともに、次期の研究テーマを設定すべき時期でもあるから、一般にGLにとって精神的緊張を強いられる時期であるが、本件発症の三日後である昭和五七年一二月二日には、事業部の当期の方針が示される事業部会議の開催が予定されており、翌三日には、事業部会議で示された方針を受けて化薬研としての対応を協議する研究発表会において、健は一五分の研究発表を三本行う予定となっていたもので、このことも健の精神的負担を一層大きいものにした。

(6) 発症当日の業務

発症当日である昭和五七年一一月二九日の健の業務内容は、次のとおりである。

〈1〉 午前七時五五分頃出社。

〈2〉 午前八時三〇分頃から午前一一時三〇分頃まで月例の研究発表会に出席。

〈3〉 午前一一時三〇分頃から午後〇時三〇分頃まで昼食休憩。

〈4〉 午後〇時三〇分頃から午後三時頃まで月例の文献報告会に出席。

〈5〉 午後三時頃から午後五時頃まで、萩井副主管と、同副主管の部下が行う予定となっていた研究発表について打合せ。

〈6〉 午後五時頃以降、執務室において、翌日予定されていた職場懇談会の準備等を行っていたと推測される。

なお、右の研究発表会及び文献報告会はいずれも月例の会議であるとはいえ、前記組織変更に伴う人事異動後初めて開かれた会議であり、健は普段以上に緊張を強いられていた。

(二) 業務起因性について

(1) 合理的関連性説

労働者災害補償制度(以下「労災補償制度」という。)の趣旨は、被告主張の民法上の不法行為における無過失賠償理論に基づく損害賠償ではなく、労働基準法(以下「労基法」という。)一条にいう「労働者が人たるに値する生活を営むため必要を充たすべき」労働条件の最低基準を定立することを目的に、負傷、死亡又は疾病が「業務上」であることのみを要件として療養補償、遺族補償などを行う法定救済制度であるところに求められるべきものである。このような趣旨からすれば、労基法七九条にいう「業務上死亡した場合」とは、業務と死亡との間に合理的関連性があることをいい、当該業務に従事したために基礎疾患を悪化させ死亡に至ったことが推定されれば足りると解すべきである(合理的関連性説)。

(2) 共働原因論

仮に、右文言を労働者の死亡と業務との間に相当因果関係がある場合でなければならないと解するとしても、被告主張の客観的相対的有力原因説は、疾病の発症の原因が複数共働(競合)していて、業務と他の共働原因が量的に比較不可能であるときには成り立ち得ないし、また、そもそも競合する原因を別個独立のものとして対立的に捉え、業務と他の共働原因のどちらが有力か比較するという考え自体誤りというべきである。相当因果関係の判断基準については、業務と関連性を有しない基礎疾患等が発症の原因となった場合であっても、業務が基礎疾患等を誘発又は増悪させて発症の時期を早める等、それが基礎疾患とともに共働原因となって発症を招いたと認められる場合には、業務と死亡との間に相当因果関係があると解すべきである。

(3) 被災者の健康管理上の過失

また、労災補償制度の前記のような趣旨からすれば、被災者の過失は業務上外の認定を左右しないというべきである。

本件においては、健が診療所において医師の診断を受けることなく降圧剤の投与を受けていたこと、及び、仮に健が高血圧症の基礎疾患を有しながら飲酒を止めなかったとしてその飲酒を止めなかったことについて健に健康管理上の懈怠があるとしても、これを理由に業務起因性を否定することはできない。

(4) 使用者の安全配慮義務違反

さらに、労災補償制度の出発点が過失責任主義の克服にあったことに照らせば、使用者が無過失の場合においても労災補償が受けられる以上、使用者の安全配慮義務違反により労働者の基礎疾患を増悪させる等して労働者が死亡した場合には、業務と死亡との間に相当因果関係があるというべきである。

本件においては、日本油脂は、健康診断の結果を通じて健が高血圧症の基礎疾患を有していることを知り得る立場にあったのであるから、健の高血圧症が悪化しないよう健の勤務時間及び職務内容について措置を講じるべきであったのに、これを怠った安全配慮義務違反がある。また、健は同社の診療所(以下、単に「診療所」という。)において降圧剤の投与を受けていたのであるから、日本油脂は、診療所のカルテに基づき健の血圧管理を適切に行うべきであったのに、これを怠った安全配慮義務違反が存する。

(三) 健の死亡が業務に起因するものであることについて

以上のとおり、健に基礎疾患たる高血圧症があったとしても、それは軽度のものであり、これが管理職としての業務上の精神的ストレスによって増悪し、さらに、発症直前の組織変更や年度末負担により急激に増悪した結果脳内出血を発症したものであり、また、健の高血圧症が改善されなかったのは、適切な血圧管理を怠った日本油脂の安全配慮義務違反によるものであるから、健の死亡は、労基法七九条にいう「業務上死亡した場合」に該当するものというべきである。

2  被告の主張

(一) 業務起因性の判断基準について

(1) 認定基準の存在

労災保険法に基づく保険給付の対象となる業務上の疾病に関して、労基法七五条二項に基づいて定められた同法施行規則(以下「規則」という。)三五条別表第一の二第九号は、「その他業務に起因することが明らかな疾病」が、労災保険法上の保険給付の対象となる旨定めている。

脳内出血は、規則三五条別表第一の二第一号ないし第八号のいずれにも該当しないことは明らかであるから、これが業務上の疾病と認められるためには、「その他業務に起因することが明らかな疾病」に該当することを要するところ、右「その他業務に起因することが明らかな疾病」に該当するか否かについては、労働省において次のとおり認定基準が定められている。

〈1〉 労働省労働基準局は、昭和三六年二月一三日付け基発第一一六号「中枢神経及び循環器系疾患(脳卒中、急性心臓死等)の業務上外認定基準について」(以下「旧認定基準」という。)を設けていた。

〈2〉 その後、労働省では、旧認定基準後の医学的知見に関する「脳血管疾患及び虚血性心疾患等に関する専門家会議」の検討結果を踏まえ、昭和六二年一〇月二六日付け基発第六二〇号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」(以下「新認定基準」という。)を制定した。

〈3〉 その後、労働省では、新認定基準後の医学的知見に関する「脳、心臓疾患等に係る労災補償の検討プロジェクト委員会」における検討結果を踏まえ、平成七年二月一日付け基発第三八号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」(以下「現認定基準」という。)が制定されたが、その内容は、後に指摘する点を除き、基本的に新認定基準と同様である。

(2) 新認定基準の内容

〈1〉 新認定基準は、規則三五条別表第一の二第九号に該当する「業務に起因することの明らかな疾病(脳血管疾患及び虚血性心疾患等)」について、次のとおり規定している。

Ⅰ 次に掲げるイ又はロの業務による明らかな過重負荷を発症前に受けたことが認められること。

イ 発症状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(業務に関する出来事に限る。)に遭遇したこと。

ロ 日常業務に比較して、特に過重の業務に就労したこと。

Ⅱ 過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が医学上妥当なものであること。

〈2〉 新認定基準の解説では〈1〉記載のⅠイの要件について、次のとおり説明されている。

「過重負荷」とは、労働者本人の素因又は基礎となる動脈硬化等による血管病変や動脈瘤等の基礎的病態(以下「血管病変等」という。)をその自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ得ることが医学経験則上認められる負荷をいい、「自然的経過」とは、加齢、一般生活等において生体が受ける通常の要因による血管病変等の経過をいう。

「異常な出来事」とは、a極度の緊張、興奮、恐怖、驚愕等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予測困難な異常な事態、b緊急に強度の身体的負荷を強いられる突発的又は予測困難な異常な事態、c急激で著しい作業環境の変化とされている。

〈3〉 新認定基準に別添された「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定マニュアル」(以下「マニュアル」という。)では、〈1〉記載のⅠロの要件について、次のとおり説明されている。

「特に過重な業務」とは、当該労働者の通常の所定業務と比較して特に過重な精神的、身体的負荷と客観的に認められる業務であり、客観的とは、医学的に血管病変等の急激で著しい増悪の要因と認められることをいうものであるので、当該労働者のみならず、同僚労働者又は同種労働者にとっても、特に過重な精神的、身体的負荷と判断されるものであるとされている。

〈4〉 新認定基準の解説では、発症と業務との関連についての判断は、次によることにしている。

ア 発症に最も密接な関連を有する業務は、発症直前から前日までの業務であるので、この間の業務が特に過重であると客観的に認められるか否かをまず第一に判断すること。

イ 発症直前から前日までの業務が特に過重であると認められない場合であっても、発症前一週間以内に過重な業務が継続している場合には、急激で著しい増悪に関連があると考えられるので、この間の業務が特に過重であると客観的に認められるか否かを判断すること。

ウ 発症前一週間より前の業務については、急激で著しい増悪に関連したとは判断し難く、発症前一週間以内における業務の過重性の評価に当たって、その付加的要因として考慮するにとどめること。

なお、現認定基準では、「発症前一週間より前の業務については、この業務だけで血管病変等の急激で著しい増悪に関連したとは判断し難いが、発症前一週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には、発症前一週間より前の業務を含めて総合的に判断すること。」とされているが、基本的な判断手法は新認定基準が示すところと異ならない。

エ 過重性の評価に当たっては業務量のみならず、業務内容、作業環境等を総合して判断すること。

(3) 新認定基準の趣旨

本件のように、負傷に起因しない脳血管疾患については、血管病変等が、加齢や日常生活等の私的な要因によって増悪し発症に至るものがほとんどであり、また、その発症には著しい個体差が認められ、業務自体が右血管病変等の形成に当たっての直接の要因とはならず、特定の業務との相関関係は認められないといわれている。しかし、個別的事案によっては、本来的には私病である血管病変等が業務上の要因によって急激な血圧変動や血管収縮を引き起こし、自然的経過を超えて急激に著しく増悪した結果、脳血管疾患を引き起こしたと医学的に認められる場合もあり、その意味で、例外的に、急激な血圧変動や血管収縮を起こし得る態様の業務の場合、血管病変等を自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ得るという意味での有害因子・危険を認め得る場合もあり、新認定基準は、いかなる場合に、このような急激な血圧変動や血管収縮が業務によって引き起こされ、血管病変等が自然的経過を超えて急激に著しく増悪し発症に至ったと認定できるかについての基準を設けたものである。

(4) 新認定基準の合理性

新認定基準は、前記専門家会議が取りまとめた昭和六二年九月八日付け「過重負荷による脳血管疾患及び虚血性心疾患等の取扱いに関する報告書」に全面的に依拠したものであり、右報告書の内容は、労働生理衛生学の成果をも含めた最新、最高水準の医学的知見であるから、これに基づいた「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当するか否かの判断は、最も合理的なものであり、それは同時に、業務と疾病発症との間の因果関係に関する医学経験則を示すものであり、右基準に該当しない業務態様の場合には、医学経験則上、業務と疾病発症との間の因果関係自体が一般的に否定されるべきものである。

(二) 相当因果関係について

(1) もっとも、右認定基準は、認定されている有害因子別に発症する疾病の業務起因性の肯定要素の集約であるから、この基準の要件と異なる形態で発症する疾病を全て否定しているものではなく、認定基準に該当しない疾病であっても、業務と疾病との間に相当因果関係が立証される疾病については、業務上の疾病として取り扱うものである。

(2) 業務と疾病との間に業務起因性が認められるためにはその両者の間に相当因果関係が存在しなければならないところ、これが肯定されるためには、業務と疾病との間に条件関係が存するだけでは足りず、当該業務に一般的にみて当該傷病等を発生させる危険、有害因子が存することが必要である。

ところで、労働者の傷病等の発生原因は通常複数の原因が結果発生に絡みあって条件関係を形成していることが多く、その結びつきも結果発生に対して同等ではなく強弱様々であるから、競合する原因の一つとして業務が考えられる場合であっても、直ちに業務起因性を認めることはできず、傷病等の結果発生が業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化と認め得るか否かが問題であることからすると、一般的抽象的には、業務が傷病等に対して、他の原因と比較して相対的に有力な原因となっていること、しかも、当該業務が当該事案において有力原因であるか否かだけでなく、客観的に他の事案にあてはめても発症の原因となり得るであろうという事実をいうものとして、その意味での普遍妥当性が必要と解すべきであり(客観的相対的有力原因説)、具体的には、右業務の危険性の有無の判断は、医学経験則、すなわち、当該疾病を発生させる危険を有する業務であることが医学的に承認されているか否かによって判断されるべきものである。

(三) 安全配慮義務について

なお、安全配慮義務違反が業務起因性の判断要素となるとの原告の主張は、契約上の債務不履行として民事損害賠償請求権を基礎づけるための概念たる安全配慮義務違反と無過失責任を前提とする労災補償制度との質的差異を無視して、使用者の民法上の責任を労災補償の場面に持ち込もうとするもので、無過失責任主義に立つ労災補償の建前に反する失当な主張である。

(四) 健の死亡が業務に起因しないものであることについて

健の業務内容や勤務状況は、平常から過重負荷の存在を推測させるものではなく、発症前においても勤務状況に特段の変化が生じたものとは解されない。むしろ、健に長期間継続して存在した相当重症度の高い高血圧症が加齢等自然的経過に加え、自らの飲酒継続等業務外での要因も相俟って増悪し、たまたま勤務場所内で発症に至ったものというべきである。したがって、健の発症・死亡とその業務との間には、条件関係自体が認め難いし、仮に相当因果関係のレベルで考えるとしても、業務が有力原因として発症に寄与したなどとは到底いえず、いずれにしても因果関係を肯定することはできない。

第三争点に対する判断

一  業務起因性の判断基準について

1  労基法及び労災保険法による労災補償制度の趣旨は、労働に伴う災害が生ずる危険性を有する業務に従事する(労働)者について、右業務に内在ないし随伴する危険性が発現し、労働災害が生じた場合に、使用者の過失の有無にかかわらず、被災(労働)者の損害を填補するとともに、被災者及びその遺族の生活を保障しようとすることにあるものと解される。そして労基法及び労災保険法が労災補償の要件として、労基法七五条、七九条等において「業務上負傷し、又は疾病にかかった(死亡した)」、労災保険法一条において「業務上の事由により」と規定するほか、何ら特別の要件を規定していないことからすると、業務と死傷病との間に業務起因性があるというためには、当該業務により通常死傷病等の結果発生の危険性が認められること、すなわち業務と死傷病との間に相当因果関係の認められることが必要であり、かつこれをもって足りるものと解するのが相当である(最判昭五一年一一月一二日・集民一一九号一八九頁参照)。そしてこの理は本件脳内出血のような脳血管疾患及び虚血性心疾患等の非災害性の労災に関しても何ら異なるものではない。

2  そして、業務と死傷病との間に相当因果関係が認められるためには、まず業務に死傷病を招来する危険性が内在ないし随伴しており、当該業務がかかる危険性の発現と認めるに足りる内容を有すること、すなわち、当該業務が過重負荷と認められる態様のものであること(以下「業務過重性」という。)が必要であり、また、本件脳内出血のような脳血管疾患の発症については、もともと被災(労働)者に、素因又は基礎疾患等に基づく動脈瘤等の血管病変等が存し、それが何らかの原因によって破綻して発症に至るのが通常であると考えられるところ、右血管病変等は医学上、先天的な奇形等を除けば、加齢や日常生活等がその主要な原因であると考えられており、右血管病変等の直接の原因となるような特有の業務の存在は認められていないこと、また、右血管病変等が破綻して脳内出血等の脳血管疾患が発症することは、右血管病変等が存する場合には常に起こり得る可能性があるものであり、右脳血管疾患を発症させる危険を本来的に内在する特有の業務も医学上認められておらず、むしろ複数の原因が競合して発症したと認められる場合が多いことに鑑みれば、単に業務がその脳血管疾患等の発症の原因となったことが認められるというだけでは足りず、当該業務が加齢その他の原因に比べて相対的に有力な原因と認められることが必要であるというべきである。

3  そして、業務過重性の判断に当たっては、それが当該業務に従事することが一般的に許容される程度の基礎疾患等を有する労働者であり、これまで格別の支障もなく同業務に従事してきているといった事情が認められる場合は、当該労働者を基準にして、社会通念に従い、当該業務が労働者にとって自然的経過を超えて基礎疾患を急激に増悪させる危険を生じさせるに足りる程度の過重負荷と認められるか否かにより判断するのが相当である。

4  そこで、以下本件において、まず健の本件発症に至るまでの健康状態等、特に基礎疾患としての高血圧症の程度、変遷等を、次いで、健が従事した業務の内容、勤務状況等を検討し、その上で、高血圧症の基礎疾患を有する健を基準にして判断した場合、その業務が、健の高血圧症をその自然的経過を超えて急激に増悪させる危険を生じさせるに足りる程に過重であったといえるか否かについて判断することとする。

二  健の本件発症に至るまでの健康状態等について

(証拠略)(書証の成立(写しについては原本の存在を含む。)については、当事者間に争いがないか、真正に成立したものと認められる。以下同じ。))(ママ)、(人証略)の各証言及び原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

1  血圧値の変遷

昭和四七年以降、健が受診した日本油脂の一般健康診断における健の血圧値の推移は、別紙(一)のとおりである。

なお、健の血圧値が従前のそれに比して大幅に高くなり、最高血圧一八八(単位はmmHg。以下同じ。)、最低血圧一一〇を記録した昭和五一年四月一三日の健康診断個人票の所見等欄には「血圧治療開始」と、翌五二年四月一二日の所見等欄には「高血圧治療断続的」、業務上の注意事項欄には「血圧定期測定」と、昭和五四年六月二六日の備考欄には「血圧観察中」と記載されている。

2  治療経過

(一) 健は、昭和五一年四月一三日の健康診断において、最高血圧一八八、最低血圧一一〇を記録した後、同月二六日診療所において高血圧症の病名による初診を受け、昭和五二年二月二五日診療所から降圧剤の投与を受けた。

(二) 健は、昭和五二年五月三〇日午前一〇時頃、仕事中に気分が悪くなり診療所で血圧を測定したところ、最高血圧一九八、最低血圧一一八を記録したため、診療所で紹介された市立半田病院の小鳥医師の下で、同月三一日から同年六月二〇日までの間、高血圧症、アルコール性肝炎、脂肪肝炎の病名で受診した。その際、小鳥医師は、診療所の岡田医師に宛て、健の高血圧症について、降圧剤(レセルピン系)を一日一回位投与して経過をみることを指示するとともに、数か月に一度検査をやってみたい旨連絡した。

(三) 市立半田病院での受診期間中の昭和五二年六月一四日午前九時三〇分頃、健は再び仕事中に気分が悪くなって診療所を訪れ、頭痛、吐き気を訴え、嘔吐もした上、終業時刻近くまで診療所で横になっていた。この日は、最高血圧一八〇、最低血圧一一〇を記録した。

そこで、健は、同月一七日から同月二九日の間、国立名古屋病院で精密検査を受けたところ、高血圧及び動脈硬化性眼底について、キース・ワーグナーの分類ではⅡaに、シャイエの分類では動脈硬化についてⅠないしⅡに、高血圧についてⅡにそれぞれ分類され、また、左心室肥大も認められた。

(四) 健の血圧値は、昭和五二年六月一九日には最高血圧一四二、再低血圧七〇、同年一二月二四日には最高血圧一四八、最低血圧八二と落ち着きを取り戻し、昭和五三年以降、健は専ら診療所から降圧剤の投与を受けるようになり、他の医療機関には通院していなかった。診療所からの降圧剤の投与状況及び血圧測定値は別紙(二)のとおりである。

別紙(一)及び同(二)によると、血圧値は、昭和五三年四月一七日の健康診断時には最高血圧一六八、最低血圧九〇となっていたが、その後医師の診察を受けない状況が続き、降圧剤の投与を受ける回数も減って、昭和五四年六月二六日の健康診断時には最高血圧一七〇、最低血圧一一〇となった。健は、その直後から規則的に降圧剤の投与を受けるようになり、同年八月三日には最高血圧一六二、最低血圧九六とやや改善が見られたが、規則的に降圧剤の投与を受けたのは同年九月一七日までの三か月足らずに過ぎず、その後降圧剤の投与を受ける間隔は開き、昭和五五年三月六日には最高血圧一八〇、最低血圧一一八となった。

同年八月四日、健は約七か月ぶりで診療所の医師の診察を受け、最高血圧一九八、最低血圧一二〇を記録した後、再び規則的に降圧剤の投与を受けるようになった。しかし、それも同年一二月一一日までの四か月余りの間しか続かず、昭和五六年には、四月一四日に一度降圧剤の投与を受けただけで、一二月二八日までほぼ八か月間降圧剤の投与を受けない状態が続いた。

昭和五六年一二月二八日、健は約一年四か月ぶりで診療所の医師の診察を受け、最高血圧二〇〇、最低血圧一一〇を記録した後本件発症に至るまでの約一一か月間はほぼ規則的に診療所から降圧剤の投与を受けていたが、医師の診察を受けることはなかった。なお、本件発症に近接した時期における血圧値は、昭和五七年四月一三日の健康診断時において記録された最高血圧一九八、最低血圧一二〇である。

3  健の飲酒状況等

(一) 医学上、脳内出血の危険因子(リスクファクター)として一般的には、高血圧、糖尿病、肥満、飲酒・喫煙、年齢等が挙げられているところ、健は、身長約一六一センチメートル、体重約五九キログラムで、肥満体ではなく、血糖値には異常はなかったが、本件発症当時四五歳で、喫煙の習慣(一日一七、八本程度)を有し、特に、飲酒を好んだ。

(二) 健はそれまで晩酌を常とし、毎月清酒一・八リットル入り三本、ウイスキー約七五〇ミリリットル入りボトル一本程度の買置きを欠かすことがなかった。前記2(三)のとおり、昭和五二年六月に国立名古屋病院で精密検査を受けた後は、妻である原告から、飲酒を控えるように注意され、アルコール類の買置きも止めたが、その後も、昭和五五年一月二一日、診療所の医師に対して、晩酌は二合であると述べ、昭和五六年一二月二八日の診察の際にも、一週間にウイスキーをボトル一本飲む旨答えていること、昭和五七年に入ってからも自宅の机の引き出しの中に隠していたワンカップの空き瓶を一か月に五、六本の割合で原告に発見されたり、隠れてポケットウイスキーを飲んでいるところを娘に見つかったり、東京出張の際、本社での会議終了後の懇親の場において、特にセーブする様子もなく日本酒を飲んでいる姿を同僚によって現認されたりしていることからして、原告に隠れて飲酒を続けていたことが明らかである。

(三) 健が診療所において受けた血液検査の結果は別紙(三)のとおりである。

医学上、アルコール性肝障害では、GOT値(正常値一~四〇)、GPT値(正常値一~三五)の上昇が軽度であるのにγ―GTP値(正常値〇~六〇)が中程度(三〇〇)以上の上昇が見られることが多いといわれているところ、昭和五四年一二月八日の検査結果を示す生化学報告書には、検査結果の数値の下に「アルコール性肝炎+脂肪肝炎」と、昭和五五年一二月九日の報告書には「減酒」と、昭和五六年四月二八日の報告書には「肝キ検サ」と、昭和五六年一二月八日の報告書には「アルコール性肝障害(?)受診」と、それぞれ記載されている。

また、健の死亡後の解剖所見では、脳内出血の外に、相当長期にわたる飲酒の継続を裏付ける脂肪肝が認められている。

4  医師の意見

(一) 名古屋保健衛生大学病院の永田淳二医師は、その意見書(〈証拠略〉)において次のとおり述べている。

〈1〉死後の剖検所見において、脳内出血、肺水種・肺うっ血、脂肪肝を認める。〈2〉二年前より高血圧を指摘され内服中。脳内出血自体高血圧との関係ありと言われている。〈3〉脳内出血が業務によるものかどうかの判定不能。

(二) 愛知労働基準局医員である伊藤博治医師は、その意見書(〈証拠略〉)において次のとおり意見を述べている。

〈1〉発症直後に搬送された杉石病院での頭部CT写真によると明らかな脳内出血が認められる。これは、大脳視床部内側型にて脳室に穿破しており第四脳室まで流れ込んでいる極めて重症の型であり、死後の剖検で脳内出血、脂肪肝が認められていることからしても、高血圧性の脳内出血である。〈2〉既往症として以前より高血圧症があり、さらに糖尿病、アルコール性肝障害が認められる。高血圧症は、発症頃には重症度分類で最も重症の程度(最低血圧一一五以上)に該当する。一応治療は行われていたものの血圧は下がっておらず、脳内出血がいつ発症しても不思議でない状態といえる。〈3〉一方、業務上特に過激な突発的なことは見当たらない。〈4〉したがって、本件発症は、従来の高血圧の自然増悪によるものであって業務が起因しているとは考えがたい。

(三) 国立公衆衛生院疫学部成人病室長上畑鉄之丞は、その意見書(〈証拠略〉)及び本件訴訟の証人尋問において、概ね次のとおり意見を述べている。

〈1〉健の血圧は、昭和四七年頃には既に境界域血圧に移行し、昭和五一年には最高血圧一八八、最低血圧一一〇と著しく上昇し、昭和五二年五月には高血圧脳症と考えられる頭痛、吐き気、嘔吐などの兆候を呈して精密検査を受けるまでになり、本件発症時まで著しい高血圧状態が持続した。〈2〉高血圧を原因とする脳内出血の発症は、血圧管理を適切に行うことによって回避することができる。ところが、本件の場合、次の〈3〉〈4〉のような診療所での血圧管理の失敗と会社における職務面での配慮不足のために健の高血圧が持続し、これが本件発症の間接的な原因となった。〈3〉昭和五二年当時の高血圧の重症度を推定すると、日本循環器管理研究会の予防対策を目的として定められた高血圧判定基準(一九六九年)では、最重症度の管理四(収縮期二〇〇以上、拡張期一一〇以上)、東大第三内科高血圧重症度分類(一九八四年)では、第三症度(収縮期一八五~二一九、拡張期一〇五~一一九)に該当し、いずれも厳重な治療や血圧管理が必要な段階にあった。そして、昭和五二年当時には、高血圧症患者に対する降圧剤の投与について、その重症度に応じた薬剤の選択及び段階的使用が一般の開業医レベルでも可能になっており、昭和五二年六月に受診した市立半田病院の小鳥医師は診療所の岡田医師に対して、レセルピン系の降圧剤の投与を指示していたが、健が昭和五二年以来五年間にわたって定期的に通院していた診療所から投与されていた降圧剤は、昭和五五年八月までは、レセルピンの二分の一程度の薬効しかない軽症高血圧症に使用されるセルシナミンS剤、昭和五五年八月以降本件発症までは、高血圧症の第一段階で使用され、かつ、耐糖能障害のある患者には使用すべきでないとされているサイアザイド型利尿剤(フルイトラン)であった。〈4〉また、健のような重症高血圧患者は、一企業では極めてまれにしかみられないものであるのに、日本油脂では、健に対して、昇進・昇格・配置転換時の配慮、仕事量の配慮、職務ストレスに対する配慮、職場の人間関係への配慮が全くなされていないばかりか、同社には、高血圧患者に関する健康管理規定さえ存在しなかった。〈5〉本件脳内出血の直接の誘因は、中間管理職としての常日頃からのストレスに加え、本件発症の約一週間前に実施された化薬研内の組織変更による管理業務の増加及び年度末の職務の増加並びに発症当日の二つの研究会における他のグループとの競合による過度の精神的ストレスである。〈6〉これがそれまでの重症高血圧症を一層悪化させた結果脳血管を破綻させたと考えられ、本件発症には業務起因性が認められる。

(四) 前日本油脂産業医の水野潤二医師は、その意見書(〈証拠略〉)において概ね以下のような意見を述べている。

〈1〉本件発症と関連あるリスクファクターとしては、高血圧が重要である。昭和五二年から治療を受けており、長期間にわたる高血圧症によって動脈壁の筋細胞が壊死に陥り、血液成分の血管壁の漏出(浸潤)や閉塞、血栓形成の促進、又は小動脈瘤形成、血管破綻による出血が誘発されることは十分予想される。〈2〉また、昭和五二年六月二九日国立名古屋病院における眼底検査の結果によれば、既に動脈硬化の兆候があり、その進行が考えられる。〈3〉中間管理職として健が受けていたストレスは社会通念上受忍すべきものであり、日常生活上の要因の範囲内とみなされるべきものである。〈4〉健は、高血圧症の治療を受けるように医師から言われていたし、労働安全衛生上、工場の安全管理者、安全衛生委員会委員として、従業員の安全、衛生面に特に注意し配慮しなければならない立場にあったから、自己の血圧管理の重要性についても十分認識していたはずである。しかし、健は血圧管理を怠り、医師の定期的な治療を受けることはなかった。また、健の血液検査によると、GOT値、GPT値、γ―GTP値に異常値が認められるが、これは禁じられた多量の飲酒を続けていたことが原因であると考えられる。〈5〉したがって、本件発症は業務によるものとは認められない。

(五) 右医師らの意見によれば、本件発症の業務起因性については、健の高血圧症に対する適切な健康管理を日本油脂がすべきか、健本人が自ら配慮すべきであったかという観点からそれぞれ異なる意見を述べているものの、少なくとも、健が重症度の高血圧症の基礎疾患を有しており、本件発症直前には、見方によれば健がその高血圧症によりいつ脳内出血を発症しても不思議でない状態に陥っていたことでは一致している点が注目される。

5  結論

以上によれば、健は、昭和五一年頃から高血圧症の状態にあり、それが本件発症に至るまで継続していたこと、その高血圧症は、本件発症当時には、その治療ないし血圧の管理が適切に行われれば、脳内出血の発症が回避できるものの、これが行われなければ、いつ脳内出血が発症しても不思議ではない程重篤な状況に陥っていたこと、しかるに、高血圧の適切な治療管理は行われず、かえって控えるべき飲酒を継続するなど健康管理が適切に行われていなかったことが認められる。

これに対し、原告は、昭和五六年一二月二八日以降、降圧剤の規則的服用により、健の血圧値は良くコントロールされており、本件発症時においては、その高血圧症の程度は重篤ではなかった旨主張する。

確かに、昭和五六年一二月二八日以降、健が診療所からほぼ二週間に一回の割合で一四日分の降圧剤の投与を受けていることは別紙(二)のとおりであり、健は、右以降本件発症に至るまで、ほぼ毎日規則的に降圧剤を服用していたであろうことが窺われる。

しかし、健が服用していた降圧剤は、血圧値を測定し医師の診察を受けた上で症状に応じて適切に処方されたものではなく、専ら終業時刻間際の工場医の不在の明らかな時刻に健が看護婦に電話で投薬を依頼し、看護婦から血圧値を測定するよう言われてもこれに従わずに投与を受けた従前どおりの降圧剤であり、これは高血圧症の初期段階で使用されるべきものであること、昭和五六年一二月二八日以降、健は診療所から投与を受けた降圧剤をほぼ毎日規則的に服用していたにもかかわらず、前記のとおり昭和五七年四月一三日においてなお最高血圧一九八、最低血圧一二〇という高い値を記録したことに照らせば、規則的な降圧剤の服用によっても、健の血圧値のコントロールは良くなされていたとはいえず、右認定を覆すには足りないというべきである。

三  健の業務等について

前記争いのない事実、証拠(〈証拠・人証略〉の各証言及び原告本人尋問の結果)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

1  健の職歴

健は、昭和三六年三月京都大学農学部農芸化学科を卒業後、同年四月一日日本油脂に入社、尼崎工場油脂研究所勤務を経て、昭和四七年二月武豊工場第一製造部第一研究課に配置換えとなり、主任研究員等を経て、昭和五〇年七月二一日開発研究課課長代理に、昭和五二年一〇月一日開発研究課長に、昭和五四年四月一日第一製造部第一研究課長に、昭和五五年一〇月二一日化薬研第一研究室長に、更に、昭和五六年一一月二日化薬研PO1GのGLに就任した。

2  日本油脂武豊工場及び化薬研の組織変更と職務分掌

(一) 健が武豊工場に配置換えとなった昭和四七年当時、同工場は、工場長の下、大きく、業務部と第一製造部及び第二製造部から成り、化薬研はまだ設置されておらず、PO関係の研究開発等は第一製造部に所属する第一研究課で、爆薬(推進・発射薬)関係の研究開発等は第二製造部に所属する第二、第三研究課でそれぞれ行われていた。その後昭和五五年、武豊工場の組織が変更され、右第一ないし第三研究課が第一、第二製造部からいずれも分離され、これら製造部門とは別個に研究部門を統合した化薬研が新たに設置された。化薬研は、設置当時、PO関係の研究開発等を担当する部署を第一ないし第三研究室と称したが、昭和五七年からは、従前の第一研究室をPO第一グループ(PO1G)と、第二研究室をPO第二グループ(PO2G)と、第三研究室を中試グループ(中試G)とそれぞれ改称した。

(二) PO関係の研究開発等に関する職務分掌は、PO1GがPOの新製品の研究開発等を、PO2GがPO合成品の研究開発等を、中試GがPO1G及びPO2Gで開発した新製品等を製造部門に移管して量産化するための研究及びパイロット生産をそれぞれ担当することとされ、各グループごとに、課長待遇のGLを筆頭に、その下に副主管、更にグループ員をもって構成され、研究テーマ毎にグループ員がチームを編成して研究業務等に従事し、これを係長クラスに相当するチームリーダーが直接指導監督するという体制であった。副主管は、次に述べるGLの業務を補佐するとともに、チームリーダー的役割も果たしていた。

(三) その後、PO関係の新製品の製造部門への円滑かつ効率的な移管を図ること等を目的として、昭和五七年一二月一日付けで中試Gを廃止し、研究開発を担当するPO1G及びPO2Gに統合することになり、これに先立ち同年一一月二一日付けで中試Gの池田副主管以下七名がPO1Gに編入され、さらに、同年一二月一日付けでPO2Gの伴野副主管以下四名がPO1Gに編入される予定となっていたため、従来一九名であった健の部下が一一名増えて合計三〇名となる予定になっていた。

(四) したがって、健は、昭和五四年四月一日武豊工場の第一製造部第一研究課長に就いた後、右のような組織ないし名称の変更に応じて、化薬研第一研究室長、化薬研PO1GのGLとその肩書の名称は変わったものの、実質的にみれば、昭和五四年四月一日以降本件発症まで大体同じポストにあったものである。

3  健の業務内容

健は、PO1GのGLの地位にあって、昭和五七年一一月二〇日以前は一九名の、同月二一日以降は二六名の部下を持つ中間管理職として、次のとおり、〈1〉PO新製品の研究開発に関する管理業務、〈2〉PO製造法の改良研究に関する対外折衝業務、〈3〉POの技術サービス及び情報収集業務、〈4〉POの性能研究・分析に関する対外折衝業務、〈5〉情報管理業務等に従事し、その業務内容は、ほぼ一貫しており、昭和五四年四月に当時の第一製造部第一研究課長に就任して以来本件発症に至るまで大きく変わることはなかった。

(一) PO新製品の研究開発に関する管理業務

健自身は、直接研究業務に携わっているわけではなく、専らグループ員が研究するテーマに関して次のような管理業務に従事していた。

(1) 研究テーマの選定・決定

主任研究員以上のグループ員からPOの新製品のアイデアを提出させる他、製造課及び営業部からの特命事項やユーザーから出されるテーマ等を取り上げ、主任研究員以上のグループ員の研究テーマを選定する業務である。

(2) 人員配置

選定・決定された研究テーマを担当するグループ員の配置業務である。

(3) 研究指導

各種の研究会議に参加し、グループ員へのアドバイス等を行うものである。

定例の研究会議としては、月例の研究発表会と文献報告会並びに月一回以上行われる主任研究会がある。研究発表会と文献報告会は、毎月同じ日に開催され、PO1G、PO2G及び中試Gの作業職を除く全グループ員が出席し、研究発表会には所長も出席していた。これらの会議は、各グループの担当者が発表を行い、これに関して質疑応答がなされるものであり、健は、発表者と事前の打ち合わせをし、アドバイスを行っていた。主任研究会は、各グループのGLと主任研究員が出席するもので、月に一回以上の割合で行われていた。

一方、非定例の研究会議としては、製造課、営業部及びユーザーから持ち込まれる諸問題について、問題毎に関係者が集まって解決策を検討するための会議が随時行われていた。

(4) 研究進捗度チェック

グループ員の研究成果をチェックし、問題点を指摘してアドバイスを与える他に、化薬研全体の研究テーマの進捗度をチェックするため月に一回開催されていたGL会議に出席し、工場長に対する化薬研全体の進捗度報告を作成提出する業務も行っていた。

(5) 新製品開発達成時の他課との折衝・製造課移管業務

新製品の開発が進んだ段階で、技術課及び製造課との間で、品質性能、安全性、コスト等商品化に要求される事項につき折衝を行い、製造課移管の諸手続を行う業務である。

他に、いずれも月に一回程度開かれる製造部主催の品質会議及び設備保安会議にも出席していた。

(二) PO製造法の改良研究に関する対外折衝業務

POの品質向上、原価低減、安全性確保を目標とした既存POの製造方法の改良研究に付随して、主として製造課及び営業部を相手に行う折衝業務である。

(三) POの技術サービス及び技術情報収集業務

ユーザー及び営業サイドからの要望事項に対する回答等窓口業務の他、新製品の合成、用途、安全性、品質等に関する情報収集業務である。この関係で、大学教授等の講演会の企画及びそのための出張もあった。

(四) POの性能研究・分析に関する対外折衝業務

POの性能研究・分析に関する対外折衝の窓口となり、担当グループに対し、指示・アドバイスを与える業務である。

(五) 情報管理業務

情報化社会に対応するための情報管理システム作りに関する業務である。その中心は、武豊工場で実施されていた情報ファイリングシステム、カード化等の成果報告並びに将来の進路検討のため、月に一、二回の東京本社技術推進部への出張業務であった。

(六) その他

以上の外に、健は、PO部門全体の総務関係の責任者でもあり、また、他のGL同様、いずれも月に一回程度開かれる工場長主催の正課長会議、労対委員会、労使委員会、安全管理者会議、品質会議等の各種会議にも出席していた。

4  健の勤務状況

健の一日の所定労働時間は、午前八時から午後四時一五分まで、拘束時間八時間一五分、実働七時間一五分、休憩一時間であり、所定休日は、毎週日曜日及び国民の祝日以外に、昭和五七年の場合、土曜日を含めて年間三六日の休日があった。

また、健の通勤時間は徒歩約一〇分程度であったところ、健は、通常午前七時四五分頃家を出て、午後五時三〇分から六時頃の間に退社し、午後七時頃帰宅しており、それ以上残業することはほとんどなかった。

健の昭和五七年八月一六日以降の勤務状況は、次に認定するとおりであるが、その勤務状況はそれ以前と特段変わりはなかった。

(一) 勤務の概況

(1) 昭和五七年八月一六日から同年九月一五日までの間

この間の健の所定労働日数は二二日で、このうち、出張を二日行い、また、いわゆる二直と称し、武豊工場の管理職が交代で、午前八時から午後一〇時まで製造工場の管理に従事するという勤務に一日就いた。所定休日は九日で、有給休暇を一日取り、これらの日はいずれも出勤していない。

(2) 昭和五七年九月一六日から同年一〇月一五日までの間

この間の健の所定労働日数は二二日で、このうち出張が七日、二直が一日であった。所定休日は八日で、有給休暇を一日取り、いずれも出勤していない。

(3) 昭和五七年一〇月一六日から同年一一月一五日までの間

この間の健の所定労働日数は二三日で、このうち出張が二日、二直が一日であった。所定休日は八日あり、いずれも出勤していない。

(4) 昭和五七年一一月一六日から同月二九日までの間

この間の健の労働日数は一〇日で、このうち出張が一日あるが、二直はなく、発症当日である一一月二九日を除いて特に残業もない。所定休日は四日あり、発症前日の休日(一一月二八日)とその前週の三連休(一一月二一日ないし二三日)の四日間はいずれも出勤していない。

(二) 出張状況

昭和五七年九月以降における健の出張状況は、次のとおりである。

(1) 昭和五七年九月における健の出張は、次のとおり延べ七日で、うち泊まりがけが二回延べ五日、日帰りが二回であった。

〈1〉 九月一〇日から一一日まで、技術指導者会議のため、神奈川県にある日本油脂戸塚工場に出張した。

〈2〉 九月二一日、油化学関西支部合成化学部会講習会参加のため、大阪に出張した。

〈3〉 九月二四日、POのPR映画編集のため、東京有楽町にある本社及び富士アドシステムに出張した。

〈4〉 九月二八日から三〇日まで、LDPフォローアップ研修会参加のため、神奈川県三浦市に出張した。

(2) 昭和五七年一〇月における健の出張は、次のとおり日帰りの出張が二回であった。

〈1〉 一〇月九日、中部化学関係学協会での口頭発表のため、三重大学に出張した。

〈2〉 一〇月一二日、パーロイルSAサンプル提出、フッ素樹脂用重合触媒に関する情報交換のため、清水市にある三井フロロケミカルに出張した。

(3) 昭和五七年一一月における健の出張は、次のとおり日帰りの出張が二回であった。

〈1〉 一一月四日、昭和五八年度上期のテーマの打ち合わせのため、本社に出張した。

なお、本社への日帰りの出張の場合、本社での会議等は通常午後五時までに終っていたが、健は、午前六時半頃武豊町の自宅を出て、帰宅するのは午後一一時半頃であった。

〈2〉 一一月一五日から一六日まで、情報担当者会議参加のため、本社に出張した。

(三) 年度末業務

日本油脂は、その営業年度を上期及び下期の二期に区分し、前年一二月一日から当年五月三一日までを上期、当年六月一日から当年一一月三〇日までを下期としており、GLにとって、各年度末は、当該年度の研究成果を総括し、次年度の研究テーマを設定する時期であった。そして、GLの右のような年度末業務の準備は、下期の場合、一〇月頃から始めるのが通常であり、昭和五七年度下期においても、その準備は一〇月頃から行われ、同年度下期のPO1Gの研究成果としてまとめられたものに関して、昭和五七年一一月八日、当時の化薬研の所長福田孝明は、同人作成のメモにより、その研究成果について十分満足できる成果を得たと評価するなどしており、年度末に行うべき業務は、その頃にはほぼ終了していた。

(四) 中試Gの廃止に伴う業務

前記2(三)で認定したとおり、昭和五七年一二月一日付けで中試Gを廃止して、研究開発を担当するPO1G及びPO2Gに統合する予定になっていたため、従来中試Gが行っていた製造課との折衝業務が、今後は新たにPO1GのGLである健らの業務として加わる予定になっていた。また、右組織変更に先立ち、同年一一月二一日付けで中試Gの池田副主管以下七名がPO1Gに編入され、さらに、同年一二月一日付けでPO2Gの伴野副主管以下四名がPO1Gに編入される予定となっており、従来一九名であった健の部下が一一名増えて合計三〇名となる予定になっていたため、これらの新しく抱える部下についての人事管理業務等が健の業務として加わることになった。

なお、右の組織変更については、健には福田所長から一か月以上前に知らされていた。

(五) 接待等

武豊工場においては、会社主催の接待は年数回程度、工場内行事・課内行事等の飲み会は年四、五回程度であったが、本件発症当時、これら飲酒の機会が設けられていたかどうかは不明である。

5  健の発症当日の勤務状況等

本件発症当日である昭和五七年一一月二九日における健の勤務の状況は次のとおりであるが、その勤務内容は平常の勤務と同様であり、これと特段異なるような状況は見当たらない。

(一) 同日、健は、午前七時五五分頃出社し、午前八時三〇分から午前一一時三〇分頃まで、月例の研究発表会に、昼食後の午後一二時三〇分から午後三時まで、月例の文献報告会にそれぞれ出席した。研究発表会は、PO1GとPO2Gから予め選任された発表者各一名が発表を行い、参加者との間で質疑応答並びに諸問題の解決方法に関する討議を行うものであり、文献報告会も、予め選任された発表者が司会を行い、GLには側面からのアドバイスが期待されているものであった。これらの月例の会議は特に紛糾することもなく進行し、常日頃から発言が多い方ではなかった健は、この日もいつものように発言は少なく、その様子に特に変わったところは見られなかった。

(二) 午後三時から午後五時まで、健は、GL室におて、萩井副主管と業務打ち合わせを行った。これは、翌年四月の化学会において発表者として予定されていた榊原副主管の予定稿について、直接の指導者である萩井副主管との間で確認を行ったものである。この打ち合わせにおいて、両者の間に特に意見の食い違いは見られなかった。

(三) 午後六時頃、PO2GのGL駒井猛が帰宅しようとした際、健はまだGL室に残って仕事をしており、その様子に変わったところは見られなかった。なお、健の机の上には当月の品質管理者会議資料や安全管理者会議資料が出ていたことから、健は、午後五時から午後六時までの間、翌日に予定されていた職場懇談会の準備をしていたものと推測される。午後七時ないし七時一五分頃、伴野副主管がGL室に入室した時には、健は不在であったが、部屋の中で特に変わった様子はなかった。

(四) 午後九時五〇分頃、GL室でいびきをかいて倒れている健を巡回中の守衛が発見し、直ちに所長に連絡し、その指示を受けて救急車で愛知県知多郡(以下、略)所在の杉石病院へ搬送した。杉石病院では、頭部CTスキャンをした上、健の病状について絶望である旨の説明がなされたが、原告が手術を望んだため、更に、愛知県豊明市(以下、略)所在の名古屋保健衛生大学病院へ搬送され、翌一一月三〇日脳室ドレナージ手術が施されたが、同日午前八時三六分脳内出血により死亡した。

(五) なお、名古屋地方気象台の観測によると、本件発症当日である昭和五七年一一月二九日午後六時以降の天候は曇り後雨で、同日の気温は最低気温が五・一度、最高気温が一六・七度、同日午後五時から午後一〇時までの間は一五、六度で推移し、前日までの気温に比較して高かった。

四  業務の過重性について

1  前記二及び三で認定したところによれば、健は、日本油脂武豊工場の中間管理職である開発研究課長に就任する以前である昭和五一年頃から高血圧症に罹患し、これが本件発症に至るまで継続し、その治療ないし血圧の適切な管理がされないまま、本件発症前にはいつ脳内出血が発症しても不思議でない程に重篤な状況に陥っていたこと、他方、昭和五四年四月以降本件発症時までの三年以上の間は、その肩書の名称は変更したものの、終始一貫してPO関係の研究開発等を担当する部署の責任者としての業務を特段の支障もなく遂行していたこと、その勤務の状況は、化薬研の勤務場所を離れる出張等の業務もあるものの、いずれも平常の業務として予定された仕事で、回数も毎月二、三回に止まり、それ以上特に肉体的、精神的疲労を蓄積させ、これを休日等の取得によって回復することができないような過激な仕事に就くということはなかったこと、本件発症当日の業務内容も平常の仕事の域を出るものではなかったことが明らかであり、これらの事情を総合考慮すれば、健の業務が、健が当時罹患していた高血圧症をその自然的経過を超えて急激に増悪させる危険を生じさせるに足りる程に過重であったとは到底認めることができない。

この点、原告は、本件発症当時、平常の業務に年度末の業務及び中試Gの廃止に伴う業務が加わり著しく多忙であったことからすると、健の業務は過重であったというべきである旨主張する。しかしながら、前記三4の(三)及び(四)で認定したところによれば、本件発症は昭和五七年度下期の終了する一日前であって、その当時には、年度末業務は既にほぼ終了していたこと、また、中試Gの廃止に伴う業務が加わるのは、昭和五七年一二月一日のその廃止以降で、本件発症当時はあくまでそれが予定されていたに止まること、右廃止に先立って中試Gの職員七名がPO1Gに配置換えされた事実はあるが、そのことから直ちに健の本件発症当時の業務に特段の負担を与えたという事情は窺えないことがそれぞれ認められるのであって、これらの事情に照らすと、原告の右主張は採用することはできない。

なお、原告は、使用者の安全配慮義務違反は業務起因性の判断要素になると主張するが、このような見解は無過失責任主義に立つ労災補償の建前に反するものであり、採用することはできない。仮にこの点を措くとしても、前記認定のとおり、健は午後六時を過ぎて残業することは稀であり、その業務自体、健の高血圧症をその自然的経過を超えて急激に増悪させる危険を生じさせるに足りる程に過重であったとは認めることができない以上、日本油脂において健の高血圧症を悪化させないようその勤務時間及び職務内容について何らかの措置を講ずべき安全配慮義務が存するのにこれを怠ったとの原告の主張は失当である。また、日本油脂では、毎年定期的に実施される一般健康診断において従業員の血圧値を測定しており、健は、血圧値が従前のそれに比して大幅に高くなった昭和五一年以降、昭和五三年から昭和五四年にかけての一時期を除き、自己の血圧値が高血圧症の重症度の高い値であることを十分認識していたのであるから、その治療ないし血圧管理は健本人が配慮すべきであったと言わざるを得ず、日本油脂において健の血圧管理を適切に行うべき安全配慮義務が存するのにこれを怠ったとの原告の主張もまた失当である。

2  したがって、その余の点について判断するまでもなく、健の業務が本件疾病についての相対的に有力な原因であるといえないことは明らかであって、本件疾病につき業務起因性を認めることはできないというべきである。

第四結論

以上によれば、健の死亡には業務起因性が認められないから、これと同じ判断の上に立ってされた本件処分は適法である。

よって、原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 福田晧一 裁判官 立石健二 裁判官 西理香)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例